2005年11月11日
目標は何のためなのか?
どうも生活科について掲げられている目標が腑に落ちません。
生活科学習指導要領
具体的な活動や体験を通して、自分と身近な人々、社会及び自然とのかかわりに関心をもち、自分自身や自分の生活について考えさせるとともに、その過程において生活上必要な習慣や技能を身に付けさせ、自立への基礎を養う。
1目標
(1)自分と身近な人々及び地域の様々な場所、公共物などとのかかわりに
関心をもち、それらに愛着をもつことができるようにするとともに、
集団や社会の一員として自分の役割や行動の仕方について考え、
適切に行動できるようにする。
(2)自分と身近な動物や植物などの自然とのかかわりに関心をもち、
自然を大切にしたり、自分たちの遊びや生活を工夫したりすることが
できるようにする。
(3)身近な人々、社会及び自然に関する活動の楽しさを味わうとともに、
それらを通して気付いたことや楽しかったことなどを言葉、絵、動作、
劇化などにより表現できるようにする。
なるほど確かにその通りです。きっとそれを守ればいい人間がきっとできるのでしょう。盲目的にここで言うことが大事だ、として子どもたちが大人になってもそれを守り続けることができればいいですよね。
しかし、じゃあなぜ身近な人々や地域や公共物などに関心や愛着をもたなければならないの?なぜ自然を大切にするの?なぜ表現できるようにするの?関心や愛着をもったり、大切にしたり、表現するとどんなことが起きるの?どんないいことがあるの?そうしないと何がいけないの?そんなことを子どもたちは考えないのでしょうか?
もし、そのなぜやこの目標を実行ことによる効果や効用と、目標と反対の行動をとった時にどんなことが起きるかということを実際に体験として理解せずに、この目標通りに学習し、育ち、卒業しても目標通りに生きていくことができるのでしょうか?"学校でそう勉強したから"と"その必要性を理解してるから"とでは、果たしてどちらがこの目標通りに生きていくことができるでしょうか!?
学習指導要領は幼稚園も小学校の生活科もいいことが書いてあるとは思います。しかし、指導要領は、それを作った側の善いと思う価値観がある種の戒律のように掲げられているというような印象が強く残ります。しかし、実際はより本質的なアプローチが必要なのではないでしょうか。生きることは泥臭く、利己的なものです。そのことを踏まえた上で、社会を築くことの有用性などを体験して理解することが大切ではないでしょうか。そのためには最初から善い子である必要はないし、悪いことをしてその結果として生じたことを反省して、なぜ善いことをした方がいいのかということを身に染みて理解することもいいのではないでしょうか。そしてそれらの理解の過程において、公共性や社会性といった類いを身につけてもいいのではないでしょうか。そんな風に講義を聞いていて思いました。
2005年11月01日
生活科という教科をご存知ですか?
平成元年の小学校の学習指導要領の改正に伴い、「生活科」という教科が小学校1、2年で勉強されることになったそうです。施行は平成4年ということで、その時既に働いていた私にとっては経験の無いこと。
教科の目標は以下の通り。
「具体的な活動や体験を通して,自分と身近な人々,社会及び自然とのかかわりに関心をもち,自分自身や自分の生活について考えさせるとともに,その過程において生活上必要な習慣や技能を身に付けさせ、自立への基礎を養う」
具体的な活動などを追々紹介したいと思いますが、ようは私の年代以上の方々は昔、近所で遊んだり、公園や川、空き地などで遊んだり、親と連れ立って出掛けたり、地域の人々との行事やコミュニケーションで学んだことを学校で教科として行われているということです。
これは核家族化、少子化、都市化などの影響で、対人関係のコミュニケーションの場が減ったことによることによる生きる基礎力をつける学習が必要となったからに他なりません。このようなことはこれまでは学校で教える必要のないことだったはずです。ですから一概に学力低下を学校だけのせいにもできないのではないでしょうか。学校は益々担う役割が多くなってきています。しかし、言うまでもなく、教育は学校だけの問題ではなく、家庭、地域、社会全体の問題であるのです。教育という一つの分野としてではなく、教育を分野を超えて横断的に考えていく必要があると思います。
生活科はある意味実学=実際の生活に生きる学習なのですが、このような学習については、学校で行うべきと思いますか?それとも家庭や地域社会で行われるべきでしょうか?みなさんはどう考えますか??