2007年09月01日
ドイツ人と軽くルソーを話す
現在、宗教教育学でルソー、フレーベル、ペスタロッチ、ルターなどフランスとドイツを中心とした教育理論を勉強しています。結構それぞれの人間観とかに触れることができるので、現実の社会に起こっていることと照らし合わせて、果たしてどの理論のどの部分が説得力があるかと考えると面白いのです。特に人間はどの程度関与したらどのように育つのかとか、性善説や性悪説などについて、最近の残虐な事件に関して、教育はどのような役割を果たし、どのように機能しなかったのか、あるいは人間が元々持っている残虐性についてなど考えることがあります。
そんな中、今週ドイツ人でアメリカで哲学を学んでいる人とその彼女でルソーを研究した香港人の人と飲む機会がありました。ルソーやカント、ペスタロッチ、フレーベルの話を少ししてみました。ルソーは子どもを育てたことが無いのにエミールなんていう理論を作った!奴は天才か!?それとも!?なんて軽い話で盛り上がりましたが、折角そういう人と知り合いになれたので、是非またもっと突っ込んだ教育学や哲学者の話をしてみたいと思います。日本での評価だけでなく、現地や海外でのその人物の捉え方などを知る機会はとてもいいものだと考えています。
2006年02月28日
評価(5) 評価における検討事項
今日で評価についての復習は最後。評価における検討事項・課題についてです。
1 評価の測定可能性
測定可能なもの :学力
測定できないもの:心の成長
機械に頼る診断 or 検査に頼る診断
専門性に頼る評価 or 経験に頼る評価
⇒ 主観的評価と客観的評価・・・・・評価は妥当・平等なのか?
2 何のための評価?
教育における評価とは
何のための評価なのか?
誰のための評価なのか?
⇒ 教育が成功したということは何で評価できるのか?
3 学力向上が言われるのは?
国際競争力の面からの学力向上の国家的なニーズ
背景:資源が無い、知識社会への移行、ハイテク社会、etc
⇒ 競争というある意味外部基準!?からの影響
学力向上=技術力向上というイメージ
4 教育の意味
教育とは一体何であるのか?
「人生の終わりに満足できるか。いかなる人生を歩むのか。
自分の人生を歩めるのか。それらを実現する力を得ること。」= 教育
↓
人の数だけその人生の基準がある。自分の人生は自分だけ!
⇒ その子どもの人生全体を考えることが必要
子どもがどう生きたいのか
↑
教育はこれを助けるものである
ex.スタイナー(シュタイナー)学校の評価
通知表は文章や詩で受け取る
5 人間形成の評価
人生は客観的に素晴しいものではない
人生は主観的なものである
⇒ いかなる人生を歩むのか
= 人生観を形成できる教育であるべき
子どもの一生をイメージして教えることが必要
長期的評価と短期的評価の両方が必要
↓
基礎力の形成につながる教育評価が必要
自分で生きる力
判断する力
教育評価については、まだまだ沢山の評価法や考え方があります。正解というものは無いのかもしれません。
参考文献
よくわかる教育評価 田中耕治編 ミネルヴァ書房
教育評価関連書籍書評集
2006年02月26日
評価(4) ポートフォリオ評価
ポートフォリオ:portfolioというと投資や経営に関する用語だと思っていましたが、教育でも使われる用語なんですね。
評価にはこのような時間軸的な見方があります。
総括的評価:単元終了時や学期末や学年末に実施される評価
vs
形成的評価:授業の過程で実施されるもの
授業のポイントのチェック
ex.小テスト、ノート点検、ゆさぶり質問など
上記のようなこうした大きな括りの中で、
活動全体で評価する = 実態に近い評価をする
↓どうやって!?
実際のデータを活用
テストの結果、宿題、作品、教師のメモ、子どもの自己評価カード、etc
・・・・・フォーマルデータ
日記、家での状態、会話、何気ない一言、不満、etc
・・・・・インフォーマルデータ
<ポートフォリオとは>
学習活動のプロセスでのデータを系統的・継続的に収集したもの
<ポートフォリオ評価とは>
ポートフォリオに収められた収集物を利用して、教師と子どもで
成長を評価する方法のこと
⇒ プロダクト評価からプロセス評価へ
評価の時期を変えることによりゴールフリー評価が可能になる
子ども自身が評価に参加できる評価方法
子ども自身が自分で振り返ることができる=成長を実感できる
ポートフォリオ評価関連書籍
ポートフォリオ教育評価関連書籍書評集
評価(3) カリキュラム評価
評価というものが生徒を評価するものばかりでしたが、最近では大学でも授業評価を学生がするようになりました。そこでカリキュラム評価という考え方についてです。
例えば、単純に生徒を評価する視点で「テストが50点だった」という状況
ではそこではその状況になったのはどんな可能性があるでしょうか!?
a:カリキュラムのせい?
b:教育方法(教え方)に問題?
c:学校の環境の問題?
d:生徒の勉強の度合いの問題?
etc....
テストの結果は、生徒の能力や努力が原因とされ易いですが、上記のように様々な原因が考えられます。このことから、特にカリキュラムが適当であったかということに焦点を当てたのがカリキュラム評価です。
2006年02月25日
評価(2) ゴールフリー評価
絶対評価と相対評価を以前復習しましたが、目標に準拠した評価がかえって目標にとらわれてしまうのではないか、という批判をしたゴールフリー評価というものがあります。
絶対評価における目標に準拠した評価
・到達度評価
⇒ 目標達成度による評価
・観点別評価
これに対するアメリカの学者スクリヴァンによる批判
料理人は料理人の目指す味(目標)に向かってスープを作るが、
完成したスープは味の良し悪しをお客が評価する。
したがってお客が料理人の意図を先に知ってしまうと正当に
評価できなくなる。
↓
学習とは多面的であり、生徒は学習により様々なことを学んでいる。
時にはそれが教師の意図を超えて学習する可能性がある。
思わぬ結果を見過ごすことになり易い。
↓
目標にとらわれない評価=ゴールフリー評価が必要
(目標が無いのではない。とらわれない。)
↓
対応案や評価者を複数にする
2006年02月18日
遺伝と環境 野生児研究
幼児に関連する事件があったものですから、教育心理学の復習も始めようと思います。
オオカミに育てられた少女の話を聞いたことがあるでしょうか!?教育心理学や発達心理学では、インドのオオカミに育てられた少女とフランスのアヴェロンの野生児の研究が有名です。年代的にはアヴェロンの野生児が先で1799年に発見されました。インドの野生児は1920年のことです。
1.アヴェロンの野生児
1799年 南フランスのアヴェロンで11〜12歳と思われる
野生児が発見された
・視線が安定しない
・音は聞こえているが関心を持たない
・注意力が全くない
イタール(J.M.G. Itard 1774〜1838)がゲラン夫人と
6年間におよぶ実験教育
2.インドのオオカミ少女
1920年 インドでオオカミの巣にいた2人の少女が発見された
アマラ:1歳半くらいで発見、1年ほどで死亡
カマラ:8歳くらいで発見、17歳で死亡
・生後まもなくからオオカミに育てられた
アマラもカマラもオオカミと同じように手を使わずに食べ物を
食べ、遠吠えをし、夜目が効いていた
・アマラは約9年間生きたが、知能は3歳6ヶ月程度にとどまり、
言葉も30語程度覚えただけだった
この2つの例から、人間の発達が遺伝要因だけでなく、乳幼児における環境要因に大きく影響されているということがわかりました。環境要因とは、学習という経験に基づく変化を意味しています。
遺伝要因:素質的要因、受精時(後)に決定
環境要因:外的要因、胎内要因も含む
成熟maturation:生得的プログラム=遺伝子プログラム
学習learning :経験による変化
このことから、乳幼児期がとても大切なことがわかります。人間は環境的な生物である訳です。
参考文献
アヴェロンの野生児関連書籍
狼に育てられた子 J.A.L.シング (著), 中野 善達・清水 知子 (翻訳) 福村出版
アマラとカマラ関連書籍
野生児研究関連図書書評
2006年01月22日
シュタイナーを精読中
ただ今、レポート課題のため、シュタイナーの『子どもの教育』を読んでいます。まだ、半分しか読んでいませんが、シュタイナー教育に関しての考え方が少し変わりそうな気がしてきました。それはレポートを書いた後に、またご報告できればと思っています。
やはり、アプローチとしてシュタイナー自身の著作とシュタイナーに関することを他の人が書いた著作の両方を読むことは正しかったと思っています。本人自身の考えに触れることの大切さを感じながら読んでいます。しかし、キリストやブッダやムハンマド、ソクラテスやアリストテレス、実在したかどうかわかりませんがピュタゴラスなど、古代の人々の考えに直接触れることができないのは全く残念です。
現代の人々で後世にまで名を残す人は誰なのでしょうか!?それは後世の人のみぞ知ることなのでしょうね。
2006年01月04日
評価(1) 絶対評価と相対評価
2学期の通知表は如何だったでしょうか?大学は後期が終了して成績表が出ますので、私の成績は今のところ定かではありません。ところで小学校や中学校の通知表あるいは通信簿、成績表を覚えているでしょうか?私は「落ち着きがない」と6年間書き続けられたことを覚えています。いずれにせよ小学校も中学校も随分と前のことなので、最近と比べると大きく評価方法が変わって来ているようです。
先月末の教育学概論と教育心理学で相次いで評価についての勉強をしましたので、復習致します。それぞれの講義内容における視点も微妙に違うので、それも面白かったです。
<教育学概論>
1)絶対評価
基準を超える/目標を達成する(成果目標達成・到達度)を評価する
ex.資格試験等
到達度評価
個々の目標の達成度
学力→知識 + 技能
→思考力 + 関心・意欲・態度(情緒的要素)
↓
どう評価するかが問題
測定可能性があるのか?
客観性があるのか?
2)相対評価
人数で決まる、他者より優れているか劣っているか
ex.通知表
<教育心理学>
1)絶対評価
a)目標準拠評価:設定した目標にそってする評価
↓
手間もエネルギーも掛かる
・細かく設定して対応しなければならない
・関心・意欲・態度・思考・判断は知識や理解のように簡単には見えない
↓
子ども一人一人にアプローチし、評価することが重要
指導と評価の一体化が必要
b)認定評価:絶対者の内的基準による評価
「それでいいじゃない!」「できたじゃない!」
教師が普段やっていること
*問題点
複数の教師からの評価をしないと妥当性が出て来ない
2)相対評価
集団に準拠した評価:集団の中でどの位置にいるか
| 評価 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
3)まとめ
現在の小学校の評価は相対評価 → 絶対評価へ
相対評価では集団の中での位置、結果という事実があるのみ=序列づけ
↑
しかし、それでは指導の改善にならない
大切なことは?
子どもが伸びていくことを助けること!!
=子どもが興味を持ち、自分自身でめあて(目標)を掲げ、
自ら進んで行くよう指導・評価すること
↑
多面点評価が必要である
*相対評価も絶対評価もバランスよくすることが大切
教育学概論も教育心理学もそれぞれより深く突っ込んだ話になっていますが、それについては改めて復習します。評価に関しては様々なアプローチがあるので、この辺りは専門的に勉強する意義をよく感じます。評価に関しては現実社会と教育の世界とをつなぐ面も含めて考慮しなければならない問題だと思います。その意味で、絶対評価と相対評価に対する考えをまとめ、また他の評価方法を勉強していきたいと思います。
参考文献
『教育評価の基礎』
『目標に準拠した評価の考え方』
『教育評価』
成績評価関連書評集
参考URL
教育の窓・ある退職校長の想い
道草学習のすすめ
yukiのつれづれだいありー
2005年11月24日
学問中心 vs 経験主義
現在に限らず、実科(自然と事物に関する教科)と人文科(人と文化に関する教科)に関して、それまで重要とされていた人文科から実科こそが重要だという考え方が産業革命以降主流になっているそうです。これはその後の流れとして、学問中心カリキュラムと経験カリキュラムのいずれを重視するかということに繋がって来ているそうです。
学問中心カリキュラム(知識獲得中心)
↓
学制(1872年)
国民教育制度、義務教育制度。欧米もほぼ同時期。
↓
それまで目立たなかった落ちこぼれが目立つようになったため、
教育方法についての研究が始まった。
↓
新教育運動へ(シュタイナー、玉川、成城、etc...)
↓
1900年頃〜
経験カリキュラムへ
知識より経験へ、子どもの興味をひくカリキュラムへ
社会科や家庭科の誕生
↓
1940−50年代
経験主義への批判が起きる
「這い回る経験主義」(活動して経験するだけで学習になっていない)
算数、理科、漢字などの学力低下が指摘される(日本)
教えるべき最低限の基礎知識は教えなければならない(アメリカ)
↓
1960ー70年代
学問中心カリキュラムへ
ソ連による人工衛星打ち上げのショック
→資本主義が技術の発達において社会主義に劣る
→社会主義が拡大してしまう(危機感)
最先端の科学教育の早期導入の必要性が主張された
ex.数学において集合論(当時最先端)の導入など
↓
結果として現場は混乱
教師も最先端の科学を理解していなかった
「七五三教育」と呼ばれ高校で7割、中学で5割、小学校で3割の落ちこぼれる
という批判が出た
↓
反発する形でフリースクール運動
↓
さらにそれに反発する動き
アメリカ政府の報告書『A Nation at Risk』
結局このように学問中心か経験主義かということの繰り返しをして来ているようです。それは、聞き慣れた詞で言えば、「子どもの学力低下」や「ゆとり教育」というトピックでして、度々ニュースや新聞で見掛けることがあります。
仕事をしていると年配の人は経験でしかものを見れないと批判をしてしまっていたことがしばしばありましたが、経験しないとわからないことも事実です。このことに関連する現在のカリキュラムについての考え方は後日学習します。
関連図書
『A Nation at Risk』
2005年11月09日
移民問題と教育現場
フランスの暴動はようやく沈静化しつつあるようです。同様の火種を抱えている国としてイタリアやドイツなどまだまだ沢山の国があるでしょう。移民の数が増えて来ると顕在化してくる問題が発生する場の一つとして、教育現場があります。それは給食。
モスリムの人々は豚を食べません。以前、旨味調味料を作っている会社の製品に豚由来の成分が入っていたということで、インドネシアで問題になったことを覚えていらっしゃいませんか?それと同じことが給食の時間におきます。他にはヒンズー教徒であれば牛を食べません。
先生だけでなく、給食のおばちゃんも大変なんです!!
2005年11月08日
なぜ人を殺してはいけないのか
「なぜ人を殺してはいけないのか?」以前、筑紫哲也の番組の討論会で子どもが大人に質問した時に、誰も明確にその答えを言える人がいなかったらしいです。果たして自分は明確に論理的にそのことを説明できるでしょうか!?昔読んだ小浜逸郎の同名の本をもう一度読み返そうと思います。
妄信的に「人を殺してはいけません」という教条を押し付けるだけで子どもたちは納得しなくなっているといいます。確かにそれは宗教においても言えることです。教典に書いてあることや指導者が言うことを、ただやみくもに追随することが正しい道なのでしょうか!?そのことを理解することが必要であり、子どもたちも大人が善いということはなぜ善いのだろうか?と考えるようになっているそうです。
さて、みなさんは、なぜ人を殺してはいけないとお思いですか!?
参考文献
『なぜ人を殺してはいけないのか』小浜逸郎、洋泉社